ビデオ・ザ・ワールドが見た“AV30年盛衰史”(8)裸が一切出てこないAVが誕生 ツイート 2013/06/14 インディーズビデオをメインに扱っていたのが「ビデオメイトDX」(コアマガジン)だった。 もともとはビデ倫AVを扱う雑誌だった「ビデオメイトDX」だったが、松沢雅彦編集長が、偶然発見した広告がその後の路線変更のきっかけとなった。「『ビデオ・ザ・ワールド』に猿ぐつわのビデオの小さな通販広告が出てたんですよ。何となく興味を持って横浜のそのメーカーを訪ねて行きました。最初は『出版社の人が本気でわかってくれるとは思わない』とか冷たくてサンプルも貸してくれないって感じだったんですけど、話を真剣に聞いていたら喜んでくれて、最後は『全部持っていってください』って言われました」 この時、松沢氏が訪れたのは小原譲プロダクションというメーカー。作品の内容は、女性が着衣のままで縛られている姿を延々と映すという本格的なボンデージビデオだった。セックスどころか裸も一切登場しない完全マニア向けのAVに、松沢氏はおもしろさを感じた。「実はそれまでAVって、ほとんど見てなかったんです。AV女優には興味あったけれど、作品には興味がなかった。でも、こうしたマニア向けのビデオには何か引っ掛かるモノがあったんです。ただのセックスを見てるよりも断然おもしろかった」 そう思ったのは松沢氏だけではなかった。最初はモノクロページのみだったインディーズビデオの紹介コーナーは評判となり、やがてカラーページに移動。そして、95年からは「ビデオメイトDX」はインディーズビデオ専門誌として生まれ変わることとなる。「同じ会社にビデ倫AVと裏ビデオを扱う『ビデオ・ザ・ワールド』(分社化により白夜書房からコアマガジンに移動)があったから、差別化という意味もあったんだけど、やっぱりインディーズがおもしろかった。若いメーカーが多かったから勢いがあった。かわいい女の子が面接に来たら、そのまま撮っちゃえ、すぐ出しちゃえ、みたいなスピーディさが気持ちよかったね」 この時期、台頭してきたインディーズメーカーに対して、ビデ倫メーカーは神経質になっていた。AV雑誌によっては、「自分たちの作品と同じページでインディーズを扱うな」などとビデ倫メーカーが圧力をかけてくることもあったという。 そのため、既存のAV誌ではインディーズ作品を大々的には扱えないという事情もあったが、インディーズ専門誌である「ビデオメイトDX」は関係がなかった。そのため、インディーズメーカーの広告も集まり、広告費だけでも相当な利益を出していたという。 コアマガジンという会社の社風なのか、「ビデオ・ザ・ワールド」と同じく「ビデオメイトDX」もまたライターに自由に書かせるという編集方針を取っていた。そのため、現在40代である筆者のようなライターにとっては、憧れのAV雑誌といえば「ビデオ・ザ・ワールド」だったが、一世代下のAVライターたちにとっては「ビデオメイトDX」がそうした存在になっていたようだ。 00年代に入るとインディーズの勢いはさらに大きくなり、ビデ倫メーカー以上に大規模なメーカーも出てきたことから、単に「セルビデオ」という言い方をされるようになった。旧勢力のレンタルメーカーと、新勢力の「セルメーカー」。こうした対立構造はビデ倫が審査不十分による強制捜査を受けて活動を休止する08年まで続く。こうなってくるとセルAVを無視するわけにもいかず、多くのAV雑誌でもレンタルと同じようにセルを取り扱うようになっていった。ユーザーにとっては、もはやセルとレンタルを区別することも意味がなくなっていたのだ。 しかし、この頃からエロ本業界には不況の波が襲いかかっていた。最終回は、不況を迎えたAV雑誌の現在を展望する。(以下次号)◆フリーライター 安田理央 タグ: インディーズブーム,グラビアデビュー,ビデオプレス,宇宙企画,安田理央,週刊アサヒ芸能 2013年 6/13号 エリア選択 北海道 青森 岩手 宮城 秋田 山形 福島 茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 新潟 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知 三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山 鳥取 島根 岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島 沖縄 韓国 [宮城県] [茨城県] [山梨県] [北海道] [静岡県] [静岡県] [東京都] [石川県] [岐阜県] [北海道]
インディーズビデオをメインに扱っていたのが「ビデオメイトDX」(コアマガジン)だった。
もともとはビデ倫AVを扱う雑誌だった「ビデオメイトDX」だったが、松沢雅彦編集長が、偶然発見した広告がその後の路線変更のきっかけとなった。
「『ビデオ・ザ・ワールド』に猿ぐつわのビデオの小さな通販広告が出てたんですよ。何となく興味を持って横浜のそのメーカーを訪ねて行きました。最初は『出版社の人が本気でわかってくれるとは思わない』とか冷たくてサンプルも貸してくれないって感じだったんですけど、話を真剣に聞いていたら喜んでくれて、最後は『全部持っていってください』って言われました」
この時、松沢氏が訪れたのは小原譲プロダクションというメーカー。作品の内容は、女性が着衣のままで縛られている姿を延々と映すという本格的なボンデージビデオだった。セックスどころか裸も一切登場しない完全マニア向けのAVに、松沢氏はおもしろさを感じた。
「実はそれまでAVって、ほとんど見てなかったんです。AV女優には興味あったけれど、作品には興味がなかった。でも、こうしたマニア向けのビデオには何か引っ掛かるモノがあったんです。ただのセックスを見てるよりも断然おもしろかった」
そう思ったのは松沢氏だけではなかった。最初はモノクロページのみだったインディーズビデオの紹介コーナーは評判となり、やがてカラーページに移動。そして、95年からは「ビデオメイトDX」はインディーズビデオ専門誌として生まれ変わることとなる。
「同じ会社にビデ倫AVと裏ビデオを扱う『ビデオ・ザ・ワールド』(分社化により白夜書房からコアマガジンに移動)があったから、差別化という意味もあったんだけど、やっぱりインディーズがおもしろかった。若いメーカーが多かったから勢いがあった。かわいい女の子が面接に来たら、そのまま撮っちゃえ、すぐ出しちゃえ、みたいなスピーディさが気持ちよかったね」
この時期、台頭してきたインディーズメーカーに対して、ビデ倫メーカーは神経質になっていた。AV雑誌によっては、「自分たちの作品と同じページでインディーズを扱うな」などとビデ倫メーカーが圧力をかけてくることもあったという。
そのため、既存のAV誌ではインディーズ作品を大々的には扱えないという事情もあったが、インディーズ専門誌である「ビデオメイトDX」は関係がなかった。そのため、インディーズメーカーの広告も集まり、広告費だけでも相当な利益を出していたという。
コアマガジンという会社の社風なのか、「ビデオ・ザ・ワールド」と同じく「ビデオメイトDX」もまたライターに自由に書かせるという編集方針を取っていた。そのため、現在40代である筆者のようなライターにとっては、憧れのAV雑誌といえば「ビデオ・ザ・ワールド」だったが、一世代下のAVライターたちにとっては「ビデオメイトDX」がそうした存在になっていたようだ。
00年代に入るとインディーズの勢いはさらに大きくなり、ビデ倫メーカー以上に大規模なメーカーも出てきたことから、単に「セルビデオ」という言い方をされるようになった。旧勢力のレンタルメーカーと、新勢力の「セルメーカー」。こうした対立構造はビデ倫が審査不十分による強制捜査を受けて活動を休止する08年まで続く。こうなってくるとセルAVを無視するわけにもいかず、多くのAV雑誌でもレンタルと同じようにセルを取り扱うようになっていった。ユーザーにとっては、もはやセルとレンタルを区別することも意味がなくなっていたのだ。
しかし、この頃からエロ本業界には不況の波が襲いかかっていた。最終回は、不況を迎えたAV雑誌の現在を展望する。(以下次号)
◆フリーライター 安田理央