赤線、青線、 …これが幻の昭和風俗だ! お泊まり女中、おちょう舟、オスペ、ダンサー花魁ほか ツイート 2015/12/12 1946年にGHQが公娼廃止を訴えてから売春防止法の施行までの12年間、国内では政府公認で売春が行われていた。その最中に発行された風俗ガイドが59年ぶりに復刻。 合法の赤線、非合法の青線、そして妖しげな街娼がたむろした♨‥‥。幻の昭和風俗をここに誌上再現する! -連れ込み旅館に風呂がない- 昨年の11月に発売され、ジワジワと売れ行きを伸ばす奇書が「全国女性街ガイド」だ。ガイドと銘打っているが、実用性はない。というのも本書は昭和30年(1955)に発行されたルポルタージュの復刻版。発行元の「カストリ出版」代表の渡辺豪氏が語る。 「ネットでの限定販売で、これといった宣伝や広報活動もしていませんが、口コミで評判が広がり、品薄状態が続いております」 遊郭の歴史を研究する渡辺氏は、その跡地を巡り歩き、写真に記録している。 「売春の跡地として忌み嫌われてきた建物にも文化遺産という側面があるということを、少しでも世間に知ってもらおうと昭和の風俗関連の書籍を復刊しています」(前出・渡辺氏) 同社はこれまで昭和5年(1930)発行の「全国遊郭案内」、昭和26年(1951)発行の「夜の盛り場探訪」などの書籍を復刻発行したが、今回紹介するのが、この集大成とも言える「全国女性街ガイド」だ。 本のはしがきによれば、著者の渡辺寛氏は新聞記者の経歴を持ち、全国を取材で旅するかたわら、遊女に関する情報を集めたという。 「沖縄を除く全ての都道府県を網羅していて、まさに赤線時代の日本の風俗情報を凝縮した一冊と言えます」(前出・渡辺氏) 赤線とは、戦後に公娼制度が廃止されたことを受け、政府が特例として風俗営業を許可した地域のことで、警察が地図上で赤く囲ったのが語源とされる。昭和33年(1958)に売春防止法が完全施行されると、非合法ながら売春行為が黙認されていた「青線」とともに姿を消した。 同書をもとに“売春合法時代”の日本を振り返っていきたい。都内でも庶民の遊び場として栄えたのが新宿2丁目界隈だ。 〈客の大半はサラリーマンと学生と文化人で、女の方もダンサー、事務員、看護婦あがりが多く、七十五軒の店に四百三十名内外の女がいる〉(「全国女性街ガイド」より引用・以下同) 店の多くは1階の飲食店スペースで客に女性を選ばせ、2階の小部屋を「ヤリ部屋」として提供した。料金は泊まりで2000円から2500円が相場。人事院の記録によれば、当時の大卒の国家公務員の初任給が8700円。庶民派をうたっても、現代の価値に換算して4万円以上の遊び代が必要だった。そのため、新宿界隈ではモグリの街娼が出没。より安い価格設定で、「温泉マーク」(=♨)と呼ばれる連れ込み旅館に客を引いたという。風俗史研究家の下川耿史氏が語る。 「かつての経営者に聞いた話では、入浴施設はまだ希少で部屋はいくつもあるのに風呂場は1つしかない。そんな連れ込み旅館ばかりで、1組の男女が使っただけで、風呂がアカだらけになる。そのたびに表面に浮いたアカを流し落とすのが大変だったようです」 -検査日を記して性病対策- 一方、現在も高級ソープランドが立ち並ぶ吉原はどうか。古式ゆかしい言葉では「寝室」を「閨房」と呼んだようだが、 〈接待から閨房秘術の奥義まで吉原流に教育されており粒も揃って御値段が高い。泊り十一時から四千円台〉 由緒ある吉原という土地柄からか、敷居は高かったようだ。 「昭和40年代には吉原にソープの前身となる風俗店が急増しましたが、お金がない人向けにオスペといって手だけのサービスを提供していました。しかし、いざ女の子を目の前にすると秘部を触りたくなるのが男心。そこは女の子も心得たもので、オスペの客にはパンツを2枚3枚と重ねばきして対応していました」(前出・下川氏) 昨今の風俗情報誌では、「ゴムつき」「生」などの情報が当たり前のように掲載されているが、本書に「避妊具」に関する記載は見当たらない。だが、性病については、かなり神経をとがらせていたようだ。吉原については、 〈梅毒と淋病の感染率が激減した〉 と記したうえでこう述べている。 〈要ママ心深い人々のために検診日をお知らせすると京一、京二が火曜、角町水曜、揚屋、江戸一木曜〉 エリアごとに性病検査の曜日をあげて、その日の夕方に遊ぶことを勧めているのだ。 本書によれば、〈お女郎から女給と名を変えた千二百名〉が働いていた吉原に対して、“西の雄”の飛田新地は、〈百八十七軒に千六百二十八名の大所帯〉だった。 〈遊びが三百五十円、泊り千二百円が相場だが、ほかに丹前代、風呂代、炭代、扇風機代(中略)なんだかんだと取られるから揚る前にクギをさすこと〉 料金の安さでは吉原とは比にならない。だが、周囲の青線地帯ではさらにデフレ化が進む。 〈宿料八十円なんて安宿がいっぱいあり、四百円も出せば一緒に泊る女もいる。但し、病気には責任が持てない〉 また飛田周辺では、通行人を強引に娼館へと引きずりこむような悪質な客引きが後を絶たなかったようで、 〈地下鉄の動物園まマえマからハイヤー七十円で廓入りした方が賢明〉 とアドバイスを送っている。 その飛田では今も変わらず娼婦たちが売春を続けている。全国の青線跡地を巡り、今年10月に「青線 売春の記憶を刻む旅」(スコラマガジン)を上梓した八木澤高明氏が現在を語る。 「今も多くの日本人女性が働いています。料金は15分1万円で、時間が近づくとピンポンとタイマーの電子音が鳴るような味気ないものですが、飛田の一角には、たいへん貴重な昭和初期の遊郭建築がそのまま残っており、界隈を散策するだけでも赤線時代を肌で感じ取ることができます」 -300人いた娼婦が20人に- 本書で〈アパート式赤線の代表〉にあげているのが、東京・江戸川区にあった「東京パレス」。130名以上の〈ダンサー花魁〉が日本人客を出迎えた。 〈夕方五時になると女たちの半分が、入口にある専用ホールに出てくる。客は百五十円のチケットを買えば、これはと思うのを選んで踊れる。ステップを踏みながら、女の耳もとでお値段の交渉をするなど、よその土地と違った味わいのあるものである〉 敷地内には宿泊施設だけでなく、中華そば店や喫茶店、美容室までそろっていたという。 大人のレジャー施設といえば、地方の温泉街にも活気があった。本書では97カ所もの温泉地を取り上げているが、石川県加賀市の山中温泉でのエピソードがおもしろい。 旅館の最寄りの駅に着くと、年の離れた2人の女中が傘を差して待っている。何も考えずに年増のほうの傘に入るとその女中が夕飯の給仕など何かと夜の面倒を見てくれた。そして筆者は〈その女中が夜のお伽ぎまで勤める〉ことを知り、翌朝にはもう一方の若い女中からこう言い寄られる。 「けさから私があんたの番なの、もう一晩泊ってね」 こうした“お泊まり女中”は決して特別なサービスではなかったようだ。 〈一流旅館を除けば、残り全部の女中さんは交渉に応じることになっている。泊りは相場千円。そのかわり、夜十二時から朝七時までで、のんびりは出来ない。しかし暇な時は女房より、親切に身の廻りの心配をしてくれ、風呂に入ると、大切なものまで洗ってくれる〉 単なる性欲処理ではない。男と女の昭和情緒あふれる交流がそこにはあった。 赤線、青線、温泉街と、売春が横行した当時は、海上も淫売の舞台となった。 〈「おちょろ舟」とか「浅妻舟」とか呼ばれている舟娼というのは今でも瀬戸内海の木ノ江とか九州佐賀の呼子港などで舟を仕事場として春を売っている。その揺れぐあいが、なんともいえぬとその道のファンは主張してやまぬ、が減る一方である〉 おちょろ舟の起源は帆船が主流だった江戸時代に遡る。 「風向きが変わるまで何日も港で待機する船乗りのもとに小舟で乗りつけて営業するのですが、炊事や洗濯まで請け負うなど、一夜の世話女房という趣もあったようです」(前出・下川氏) おちょろ舟の名残を残すのが、三重県の的矢湾に浮かぶ渡鹿野島だ。動力船が普及して働き場を失った舟娼たちは島に上陸して、昭和、平成と春を売り続けた。 「最盛期の80年代から90年代にかけて300人以上の娼婦が島で暮らしていましたが、今は20人にも満たないと言われています」(前出・八木澤氏) 失われた色街の光景を現代に伝える「全国女性街ガイド」。一読の価値はある。 タグ: マニアック,赤線,青線,昭和風俗,お泊まり女中,おちょう舟,オスペ,ダンサー花魁 エリア選択 北海道 青森 岩手 宮城 秋田 山形 福島 茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 新潟 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知 三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山 鳥取 島根 岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島 沖縄 韓国 [愛媛県] [東京都] [群馬県] [静岡県] [岐阜県] [青森県] [宮城県] [山口県] [奈良県] [山形県]
1946年にGHQが公娼廃止を訴えてから売春防止法の施行までの12年間、国内では政府公認で売春が行われていた。その最中に発行された風俗ガイドが59年ぶりに復刻。
合法の赤線、非合法の青線、そして妖しげな街娼がたむろした♨‥‥。幻の昭和風俗をここに誌上再現する!
-連れ込み旅館に風呂がない-
昨年の11月に発売され、ジワジワと売れ行きを伸ばす奇書が「全国女性街ガイド」だ。ガイドと銘打っているが、実用性はない。というのも本書は昭和30年(1955)に発行されたルポルタージュの復刻版。発行元の「カストリ出版」代表の渡辺豪氏が語る。
「ネットでの限定販売で、これといった宣伝や広報活動もしていませんが、口コミで評判が広がり、品薄状態が続いております」
遊郭の歴史を研究する渡辺氏は、その跡地を巡り歩き、写真に記録している。
「売春の跡地として忌み嫌われてきた建物にも文化遺産という側面があるということを、少しでも世間に知ってもらおうと昭和の風俗関連の書籍を復刊しています」(前出・渡辺氏)
同社はこれまで昭和5年(1930)発行の「全国遊郭案内」、昭和26年(1951)発行の「夜の盛り場探訪」などの書籍を復刻発行したが、今回紹介するのが、この集大成とも言える「全国女性街ガイド」だ。
本のはしがきによれば、著者の渡辺寛氏は新聞記者の経歴を持ち、全国を取材で旅するかたわら、遊女に関する情報を集めたという。
「沖縄を除く全ての都道府県を網羅していて、まさに赤線時代の日本の風俗情報を凝縮した一冊と言えます」(前出・渡辺氏)
赤線とは、戦後に公娼制度が廃止されたことを受け、政府が特例として風俗営業を許可した地域のことで、警察が地図上で赤く囲ったのが語源とされる。昭和33年(1958)に売春防止法が完全施行されると、非合法ながら売春行為が黙認されていた「青線」とともに姿を消した。
同書をもとに“売春合法時代”の日本を振り返っていきたい。都内でも庶民の遊び場として栄えたのが新宿2丁目界隈だ。
〈客の大半はサラリーマンと学生と文化人で、女の方もダンサー、事務員、看護婦あがりが多く、七十五軒の店に四百三十名内外の女がいる〉(「全国女性街ガイド」より引用・以下同)
店の多くは1階の飲食店スペースで客に女性を選ばせ、2階の小部屋を「ヤリ部屋」として提供した。料金は泊まりで2000円から2500円が相場。人事院の記録によれば、当時の大卒の国家公務員の初任給が8700円。庶民派をうたっても、現代の価値に換算して4万円以上の遊び代が必要だった。そのため、新宿界隈ではモグリの街娼が出没。より安い価格設定で、「温泉マーク」(=♨)と呼ばれる連れ込み旅館に客を引いたという。風俗史研究家の下川耿史氏が語る。
「かつての経営者に聞いた話では、入浴施設はまだ希少で部屋はいくつもあるのに風呂場は1つしかない。そんな連れ込み旅館ばかりで、1組の男女が使っただけで、風呂がアカだらけになる。そのたびに表面に浮いたアカを流し落とすのが大変だったようです」
-検査日を記して性病対策-
一方、現在も高級ソープランドが立ち並ぶ吉原はどうか。古式ゆかしい言葉では「寝室」を「閨房」と呼んだようだが、
〈接待から閨房秘術の奥義まで吉原流に教育されており粒も揃って御値段が高い。泊り十一時から四千円台〉
由緒ある吉原という土地柄からか、敷居は高かったようだ。
「昭和40年代には吉原にソープの前身となる風俗店が急増しましたが、お金がない人向けにオスペといって手だけのサービスを提供していました。しかし、いざ女の子を目の前にすると秘部を触りたくなるのが男心。そこは女の子も心得たもので、オスペの客にはパンツを2枚3枚と重ねばきして対応していました」(前出・下川氏)
昨今の風俗情報誌では、「ゴムつき」「生」などの情報が当たり前のように掲載されているが、本書に「避妊具」に関する記載は見当たらない。だが、性病については、かなり神経をとがらせていたようだ。吉原については、
〈梅毒と淋病の感染率が激減した〉
と記したうえでこう述べている。
〈要ママ心深い人々のために検診日をお知らせすると京一、京二が火曜、角町水曜、揚屋、江戸一木曜〉
エリアごとに性病検査の曜日をあげて、その日の夕方に遊ぶことを勧めているのだ。
本書によれば、〈お女郎から女給と名を変えた千二百名〉が働いていた吉原に対して、“西の雄”の飛田新地は、〈百八十七軒に千六百二十八名の大所帯〉だった。
〈遊びが三百五十円、泊り千二百円が相場だが、ほかに丹前代、風呂代、炭代、扇風機代(中略)なんだかんだと取られるから揚る前にクギをさすこと〉
料金の安さでは吉原とは比にならない。だが、周囲の青線地帯ではさらにデフレ化が進む。
〈宿料八十円なんて安宿がいっぱいあり、四百円も出せば一緒に泊る女もいる。但し、病気には責任が持てない〉
また飛田周辺では、通行人を強引に娼館へと引きずりこむような悪質な客引きが後を絶たなかったようで、
〈地下鉄の動物園まマえマからハイヤー七十円で廓入りした方が賢明〉
とアドバイスを送っている。
その飛田では今も変わらず娼婦たちが売春を続けている。全国の青線跡地を巡り、今年10月に「青線 売春の記憶を刻む旅」(スコラマガジン)を上梓した八木澤高明氏が現在を語る。
「今も多くの日本人女性が働いています。料金は15分1万円で、時間が近づくとピンポンとタイマーの電子音が鳴るような味気ないものですが、飛田の一角には、たいへん貴重な昭和初期の遊郭建築がそのまま残っており、界隈を散策するだけでも赤線時代を肌で感じ取ることができます」
-300人いた娼婦が20人に-
本書で〈アパート式赤線の代表〉にあげているのが、東京・江戸川区にあった「東京パレス」。130名以上の〈ダンサー花魁〉が日本人客を出迎えた。
〈夕方五時になると女たちの半分が、入口にある専用ホールに出てくる。客は百五十円のチケットを買えば、これはと思うのを選んで踊れる。ステップを踏みながら、女の耳もとでお値段の交渉をするなど、よその土地と違った味わいのあるものである〉
敷地内には宿泊施設だけでなく、中華そば店や喫茶店、美容室までそろっていたという。
大人のレジャー施設といえば、地方の温泉街にも活気があった。本書では97カ所もの温泉地を取り上げているが、石川県加賀市の山中温泉でのエピソードがおもしろい。
旅館の最寄りの駅に着くと、年の離れた2人の女中が傘を差して待っている。何も考えずに年増のほうの傘に入るとその女中が夕飯の給仕など何かと夜の面倒を見てくれた。そして筆者は〈その女中が夜のお伽ぎまで勤める〉ことを知り、翌朝にはもう一方の若い女中からこう言い寄られる。
「けさから私があんたの番なの、もう一晩泊ってね」
こうした“お泊まり女中”は決して特別なサービスではなかったようだ。
〈一流旅館を除けば、残り全部の女中さんは交渉に応じることになっている。泊りは相場千円。そのかわり、夜十二時から朝七時までで、のんびりは出来ない。しかし暇な時は女房より、親切に身の廻りの心配をしてくれ、風呂に入ると、大切なものまで洗ってくれる〉
単なる性欲処理ではない。男と女の昭和情緒あふれる交流がそこにはあった。
赤線、青線、温泉街と、売春が横行した当時は、海上も淫売の舞台となった。
〈「おちょろ舟」とか「浅妻舟」とか呼ばれている舟娼というのは今でも瀬戸内海の木ノ江とか九州佐賀の呼子港などで舟を仕事場として春を売っている。その揺れぐあいが、なんともいえぬとその道のファンは主張してやまぬ、が減る一方である〉
おちょろ舟の起源は帆船が主流だった江戸時代に遡る。
「風向きが変わるまで何日も港で待機する船乗りのもとに小舟で乗りつけて営業するのですが、炊事や洗濯まで請け負うなど、一夜の世話女房という趣もあったようです」(前出・下川氏)
おちょろ舟の名残を残すのが、三重県の的矢湾に浮かぶ渡鹿野島だ。動力船が普及して働き場を失った舟娼たちは島に上陸して、昭和、平成と春を売り続けた。
「最盛期の80年代から90年代にかけて300人以上の娼婦が島で暮らしていましたが、今は20人にも満たないと言われています」(前出・八木澤氏)
失われた色街の光景を現代に伝える「全国女性街ガイド」。一読の価値はある。