創刊「60年の騒然男女」今明かされる「性の改革者」たちの肖像!! vol.9「「特出しの女王」の素顔公開 初代・一条さゆりが「猥褻裁判」敗訴で服役するまで 公判中に出演したポルノ映画で支持者が離れてい

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創刊「60年の騒然男女」今明かされる「性の改革者」たちの肖像!! vol.9「「特出しの女王」の素顔公開 初代・一条さゆりが「猥褻裁判」敗訴で服役するまで 公判中に出演したポルノ映画で支持者が離れてい

2016/11/09

創刊「60年の騒然男女」今明かされる「性の改革者」たちの肖像!! vol.9「「特出しの女王」の素顔公開 初代・一条さゆりが「猥褻裁判」敗訴で服役するまで 公判中に出演したポルノ映画で支持者が離れてい

週刊アサヒ芸能が創刊されたのが1956年。その翌年には売春防止法が施行され、日本の公娼制度は姿を消した。ところが、日本人のエロスに対する飽くなき探究心が「性のタブー」を逆手に取るように、日本の性文化は世界でも類のない独自の進化を遂げた。その裏には時代をリードした〝改革者たち〟の存在が欠かせない。そんな日本のSEXエリートたちの肖像を今一度振り返る。

昭和の時代に一世を風靡した伝説のストリッパーといえば、初代・一条さゆり(享年60)。迫真のステージでファンを魅了し、「特出しの女王」とも呼ばれたが、逮捕歴は実に10回。その数奇な人生を作家の加藤詩子氏が明かす。

引退興行中に公然猥褻物陳列罪で10度目の逮捕となった。ストリッパーの裁判では異例の最高裁まで争い、一躍時の人になったが、最終的には懲役刑が確定。晩年は大阪・西成区のあいりん地区に暮らし、平成9(1997)年8月3日、肝硬変で生涯を閉じた。まさに波乱の人生だった。

晩年の彼女と出会い、5年の歳月をかけて著した「一条さゆりの真実─虚実のはざまを生きた女」(新潮社)の著者である作家の加藤詩子氏は、こう話す。

「インテリでもなく、賢い人でもなく、ただ孤独な人だった。人にかまってほしいというのか、そういうことに人一倍飢えていた。純粋で素直な人だった。女性特有の嫉妬深さもなく、いやらしさのない人だった。そこが好きだったんですけどね。何かにつけ『イヤ』と言わない人で、だから寄生虫みたいな男がいろいろ寄ってきた。いい人にも恵まれて彼女に尽くしてくれた男の人もいたけど、たぶんもの足りなかったんでしょう」

一条は昭和12(1937)年生まれ。30年代にストリッパーとしてデビュー。駒田信二氏の小説「一条さゆりの性」で注目を浴び、よみうりテレビ制作の「11PM」のレギュラーも務めた。最後の現行犯逮捕は昭和47(1972)年5月、大阪・吉野ミュージックで引退興行中でのこと。当時、大阪の劇場でしか見られなかった〝特出しショー〟をやっていたためだ。

最初は「社会の潤いにはポルノも必要だ」として彼女を支持する文化人も多く、小説を書いた駒田氏は

「(彼女の舞台は)芸術という言葉には当てはまらないが、優れた芸だと思う。猥褻には当たらない」などと弁護した。しかし、裁判中に映画「一条さゆり 濡れた欲情」に出演。これが印象を悪くして公判にも影響したようで、裁判が進むにつれ、支持者らは潮が引くように離れていったという。

「今から考えたら、素直に生きてる人だから、いろんな人が自分に関わってくれてサービス精神で応じてるうちに、最高裁まで争うことになった。そんな気がします」(加藤氏)

結局、懲役刑が確定し、一条は和歌山刑務所に半年ほど服役。出所後も痴情のもつれから、交際中の男にガソリンをかけられ大やけどを負っている。晩年はずっとあいりん地区でひっそりと暮らし、ドヤ街の菩薩などとも呼ばれた。

一条との出会いと別れを振り返り、加藤氏は葬式の時がいちばん印象に残っているという。

「みんなで(お棺を)運び出す時、霊柩車ではなくトラックみたいな車に乗せて行ったんですけど、ものすごい雨が降ったんです。普通の雨じゃなかった。彼女が降らせているような雨で、涙雨というのか、行きたくないと言っているような、そんな雨でした」

来年は没後20年を迎える─。