遊郭からソープへ変貌した「吉原の360年」(2)現代の遊女は泡姫に…

遊郭からソープへ変貌した「吉原の360年」(2)現代の遊女は泡姫に…

2013/09/14

遊郭からソープへ変貌した「吉原の360年」(2)現代の遊女は泡姫に…

 では「遊郭」とは、どんな場所を指すのか。かつては花街、色里、遊里、傾城屋など公許の遊女屋が軒を連ねる一帯が多数存在したという。性風俗研究家の松沢呉一氏が解説する。

「郭という文字は城郭の郭と同じですから、もともと塀や堀に囲まれた一角を意味します。吉原がそうですね。もう1つ、宿場町にいた飯盛女から発達したものがあります。品川や新宿です。大きくこの2つの流れから遊郭は成り立ちます。それまでにも売春業自体は公認、黙認されていましたが、遊郭という形態は豊臣時代に許可を与えたのが始まりとされています」

 その長い歴史の中でも、吉原は「別格」だ。約250年にわたり日本を統治した江戸幕府が、正式に営業許可を与えた唯一の遊郭だからだ。

 妓楼の主人、庄司甚右衛門が幕府に遊郭設置を願い出たのが1605年。現在の中央区堀留付近に、1617年に幕府は「旧吉原」の開設を許可する。だが、江戸が急速に市街地化したため、幕府は甚右衛門に移転を命じる。1657年に現在の場所に「吉原遊郭」は移り、そこから約360年の歴史を刻んでいる。

 近世から近代に入った文明開化の時代、人権が唱えられ始める。1872年には政府が娼妓解放令を発布、政治権力に認められた時代は終焉する。その後も公娼制度が維持され、吉原の遊女屋は「貸座敷」と名前を変え、1903年には写真指名システムを導入するなど、サービスと業態を変えながら、生き残りを図る。また、複数の大火が吉原を襲い、関東大震災、東京大空襲のたびに消失しては復活を果たしてきた。

 だが、敗戦と同時に決定打が下される。GHQの指令で公娼制度が廃止。いわゆる赤線となるが、1958年には売春防止法施行で赤線も姿を消していく。

「明治時代に廃娼運動が始まり、それとほぼ同時に芸者の地位が上がり、上客はそちらに移る。戦後は公娼が消えて赤線になり、売防法以後にトルコ風呂、そして現在のソープランドになるんですが、長い目で見ると、吉原の歴史は凋落の歴史と言えます」(松沢氏)

 とはいえ、現在も吉原には130軒のソープランドが存在する。スマホで検索すれば、どの泡姫が出勤中かも把握できるほど便利になっている。現代の遊女に会おうと、真剣にソープ嬢を探している横で、前出・瀧波氏はこう言うのだ。

「遊郭時代は引手茶屋の紹介なしには座敷に上げてもらえず、座敷に上がっても初回は対面で遊女と食事をするだけ、2回目でやっと横に座ってもらえて、3回目で一夜を共にできる可能性が出てくる。それでも遊女がイヤとなったらできない。当時の上級遊女の花魁ともなれば、庶民には高根の花で、浮世絵がブロマイドのように扱われる。いわば、アイドルですよ。江戸の女性もファッションをまねたほどです。今の風俗嬢とは違います」

 瀧波氏と別れ、スマホで見つけたソープへと向かった。いわゆる大衆店である。

 確かに、建物はビルでソファの待合室では江戸情緒などない。でも、ここは現在も「男の楽園」であることに変わりはなかった。

 個室で迎えたのは22歳の泡姫。優しげな顔もあるが、ややぽっちゃりの体型が包容力を増していた。

「顔は自信ないけど、サービスは頑張るので‥‥」

 奥ゆかしい挨拶は、“新人ソープ嬢”らしいものだった。ところが、サービスは“ベテラン”だったのだ。

 いわゆる泡踊り、くぐり椅子、さらにはマットプレイと、常にこちらのツボを的確に捉えていた。

 彼女の献身を堪能したあとにじっくり話を聞いた。

「遊郭? ふーん、知らなかった。前はデリヘルにいたんだけど、お客さんに怖い人が多くて‥‥。吉原は優しいお客さんばかりと聞いて、1カ月前に入店したの。まあ、私の場合は親とも音信不通だし、高校生の妹の学費を稼がなきゃいけないから、普通のOLというわけにはいかない」

 瀧波氏とともに避暑のために入った喫茶店で、店主からこんな話を聞いた。

「江戸時代のお姉さんたちは、お得意さんに小指を落として送っていた。それほど『あなたに誓いを立てた』という意思表示、指切りゲンマンの語源という説もある。でも、小指を落としたのはウソ。お得意さんは何人もいるから、死んだ遊女から小指を落としていたというのよ。恐ろしい話に聞こえるけど、たくましくてほほえましくも感じない?」

 妹の学費のため、それもウソかもしれない。でも、彼女に感じたたくましさは真実に思えた。

 ソープ帰りに「見返り柳」で吉原を振り返ってみた。江戸の華やかな遊郭の光景が見えた気がした。